第二幕で、世界は優しくなくなる。
第一幕では、地球は美しかった。海は光り、森は息をし、町はまだ穏やかだった。 だが第二幕では、その美しさの奥にあった緊張が表面へ出てくる。 観客は気づく。これは単なる自然の気まぐれではない。 人間が長く書き続けてきた古い脚本が、天気そのものを変えてしまったのだ。
火災は山だけの問題ではない。風、電線、乾いた土、避難道路、保険、発電機、 老人ホーム、ペット、馬、冷蔵庫、携帯電話の充電まで巻き込む。 洪水は水だけの問題ではない。排水、舗装、地下室、学校、港、病院、 汚水、記憶、帰れない家族まで運んでしまう。
熱波は温度計の数字だけではない。子どもの校庭、作業員の背中、 高齢者の部屋、エアコンの電気代、停電の恐怖、夜になっても冷えない街である。 そして停電は、暗闇だけではない。医療機器、冷蔵薬、通信、ポンプ、 水、ガソリン、孤独を一度に止める。
地球が怒っているのではない。
私たちが、地球の限界を無視する脚本を書き続けたのである。
ヒロは、現場へ引き戻される。
ヒロの電話が鳴る。学校、港、避難所、在宅医療の家庭、丘の上の施設。 どこも同じことを言う。「電気が必要です」「水が止まりそうです」 「冷蔵庫が持ちません」「夜までに何とかできませんか」。
彼は答えを知っている。全部は救えない。すべての屋根に今日パネルを載せることはできない。 すべての家に今夜バッテリーを届けることもできない。 現実は、ヒロの工具箱より大きい。
それでも彼は動く。なぜなら、現場の人間は「全部は無理です」と言いながらも、 一つだけは救えることを知っているからだ。一つの教室。一つの冷蔵庫。 一つの医療機器。一つの水ポンプ。一つの電話。
アオイは、カメラを下ろせなくなる。
アオイは最初、記録者でいようとする。被災地の顔、避難所の廊下、 子どもたちの不安、老人が握る薬袋、港の氷が溶ける音。 彼女は撮る。なぜなら、見なかったことにされる痛みほど、残酷なものはないからだ。
だが、第二幕の途中で、彼女は自分の限界を知る。 ただ記録するだけでは、暑さは下がらない。カメラは冷蔵庫を動かさない。 映像は、ポンプを回さない。
そのとき、彼女はヒロの世界を初めて理解し始める。 配線図は冷たいものではない。誰かの命を夜までつなぐための線である。 バッテリーは機械ではない。恐怖を朝まで遅らせる容器である。